2021年4月18日日曜日

つかこうへい「熱海殺人事件~売春捜査官」 9PROJECT

 この作品を実は二十数年ぶりに観た。以前観たときは、まだ演劇を観なれていなかったせいもあり、「なんじゃこりゃ!」という感想だけをもった。観たのは北区だったが、どこの劇団だったかも記憶にない。スピード感には感心した覚えがあるのだが、わけがわからないまま2時間が過ぎ、それが肉にも血にも変換されなかったのだった。だから、今回は、その歴史を塗り替える期待半分恐れ半分のような気持ちだった。

結論から言おう。今回も前述の感想そのものは大して変わらなかった。しかし演劇を見る目はだいぶ肥えたので、技術的な点や構成の面ではかなり感動した。全編がクライマックス!のようなエネルギーは圧巻だし、手品師のような仕掛けの数々の見事さには目を奪われた。ミュージカルのような昭和歌謡のオンパレードも非常に好みであった。

では何が壁のままだったのかというと、「なんじゃこりゃ!」の部分である。つまりその答えはテーマに基づく登場人物の心の動きにあるようだ。主人公をはじめとする登場人物たちが、なぜそんな気持ちになり、なぜそんなことにこだわり、なぜそんなことに傷つき、なぜそんなことから逃れられないのかが、私にはわからなかったのだ。人間はみな育ちも生まれも性格も違うのだからわからない点があるのは当たり前だ。しかし演劇(あるいは小説)は、違う考え方や生き方との葛藤が描かれていることが一般的なので、出てくる人物たち(あるいは単数だったとしても)のどこかしらには自分そっくりのベクトルを見出すことができるものである。たとえば外向きの心と内向きの心の葛藤にしても、未来志向と過去志向の葛藤にしても、どちらか一方が自分の姿に近いのである。だから「こっちに来るなよ!やめとけ!」とか「はやくそこを抜け出してこっちへ来い!」とか「そうそう、今の状態辛いよね」とか声をかけながら人物を愛したり移入したりできるものなのだ。しかしこの作品の場合、自分を置ける位置がみつからない。だから、根本的な原因で、「なんじゃこりゃ!」は解決しないのである。

つかこうへい作品のすべてにそれを感じているわけではない。むしろ「二代目はクリスチャン」や「幕末純情伝」などはちゃんと自分を発見できるし、「蒲田行進曲」は移入ではないが客観的視点で深く理解できるから愛してやまない。どれも魅力に満ちた作品であり、その点では「熱海殺人事件」もまぶしさはある。私が思うに、つかこうへいの作品はどれもコンプレックスという言葉を抜きには語れない。そのコンプレックスの傷つきポイントが大抵は共感できる。しかし、この作品だけは傷つきポイントにズレを感じたまま二時間が過ぎるので「なんじゃこりゃ!」が起きるのだろう。異文化理解は難しい。

そういうわけで、それは劇団のせいでも演出のせいでもない。舞台そのものは本当に見応えがあった。主演の高野愛は公演中に声を潰したのかもともとなのか、聞きとりにくい質感の声になっていたことだけが惜しかったが、迫力やテンポや存在感は申し分なかった。ほかの3人も配役によくハマっている上に、実にエネルギッシュで、演技の説得力が高かった。道具の使い方も圧巻だ。私のように原作との相性問題を抱える心配がない人にはぜひおすすめの舞台である。

2020年12月12日土曜日

雑感

 文章が書けなくなった。ツイッターをはじめてからどんどん書けなくなったのだ。

140字に慣れてしまったのだろうか。いや、それだけではない。細かく複雑な事情が重なり合って書けなくなったことを私は知っている。

昔から読むより書く方が好きだった。書くことで金銭を得ていたこともある。書けば書くほど、文章の中に投影された自分が実体以上に満足のゆく存在になっていた。

最近は、ちがう。読むことで世界が広がる楽しみを知った。文章に投影せずとも身の回りのモノの写真や自分の写真にイイネがたやすくもらえる。書く必要なんかない時代なのかもしれない。

幼いころからクラスで一番文章がうまかった。でもツイッターに書いている人は全員そう。世界中のクラスで一番がわんさか集まっている。自分の小ささを痛いほど知る。

カラオケだってそうだ。町内カラオケ大会では大絶賛される子どもだったし、職場でも常に宴会クイーンだった。でも、精密採点で全国のコンペに挑めばひとたまりもない。93点やそこらではテレビの予選すら通らない。別にそうしたいと言っているのではない。ただ、私の自尊心や自信は、この時代になって大海の広さを知ったことによって、すべてのジャンルでずたずたになってきたことを言いたいのだ。

村一番の美少女が後宮に入って、全く天子の目に留まることもないことを気に病んで自殺してしまった話を読んだことがあるが、気持ちがわかる。

グローバル化の弊害だな、とまとめてみる。

2020年7月30日木曜日

翻訳『和泉式部日記』 ~夢よりもはかなき~ ラノベ風現代短歌訳

 恋なんて夢よりも儚いってわかってはいたけれど、私を置いて逝ってしまったTAKAのことばっかり思って悩みながら夜を明かし暮らして十カ月。気づいたら四月も中旬にさしかかってて、庭の葉がわさわさ茂って木の下のあたりが暗くなっている。フェンスにからむ草も青々としてきてきれいだけど、誰の目にも入らないんだなぁなんて、しみじみ見てたら人の気配がした。誰だろう  と思ってみると、TAKAの使いをしてたボーイだった。  

 ほんとに毎日ぼーっと悲しんで暮らしてた私は、懐かしくなって、「どうして長い間来なかったのよ。TAKAの思い出と一緒にボーイ君のことも思ってたのに。」と言うと、ボーイは「用もないのにいづみさんのとこに来るなんて馴れ馴れしくて悪いかなって遠慮してました。ちょっと前は合宿いったりもしてましたし。TAKAさんがお亡くなりになってからは仕事もないし一人ぼっちだったんで、最近はTAKAさんの身代わりに弟君のアツミチさんにお仕えしています。」と答えた。「それはよかったわね。でも、そのアツミチさんってやたら上品で気取ってるんでしょ。TAKAみたいに気さくじゃないってきいてるよ。」  

 私がそう言うとボーイは、「上品な方なのはほんとですが、僕にはフレンドリーですよ。今日も、『今でもいづみさんの家に行ったりしてるのか』と訊かれたので、勢いで『はい』とお答えしたところ、『じゃあ、これを持って行ってプレゼントして、コメントをもらってこい』とおっしゃいました。」と言いいながら、橘の花を取り出した。

「あっ…」と私は思わず昔の歌が口をついで出た。

あのひとのシャツの袖から香ってたコロンだポーチュガル4711

「では僕は帰りますが、アツミチさんになんてお返事しましょうか。」とボーイは言うが、初めてのアツミチさんに伝言で返事するのも失礼な感じはする。手紙を渡してちょっと誤解されるのも心配だけど、〈まあ、いいわ。アツミチさんてすごく生真面目だっていう噂だから、歌くらいさしあげたってチャラいって思われないわよね〉と思って、

シトラスの残り香よりも似てるかもしれない声の君が気になる

と書いて渡した。

そのころ、アツミチのほうは、テラスで待っていたみたいで、ボーイがこっそり物陰から合図したのを見つけて、「どうだった」と聞いてきた。ボーイがいづみのお返事をさし出すと、アツミチはすぐに読んですぐに返事を書いた。

同じ木のホトトギスだよ兄さんの代わりにきっとなれる僕だよ

そう書いて、ボーイに渡す時にアツミチは「誰にも言うなよ。遊び人みたいに思われるからな。」と念を押して、部屋に戻っていった。  

一方、いづみのほうは、ボーイが持ってきたこの手紙を見て〈キャー、ステキ!〉とときめいたものの、〈手紙がくるたびに返事を出すのも待ってたみたいでカッコ悪いかしら〉と思って、返事は出さなかった。

アツミチの方は、まだワンチャンあるか確かめようと思ってまた手紙を書いた。

告らなきゃよかったバカだ自分から首を絞めてる恋が苦しい

いづみは、もともとちょっと軽い女だった上に、寂しくてどうしようもない毎日を送っていたので、アツミチのこの歌に心が動いた。だからちょっと彼を試すような歌を返してみることにした。

まだまだねまだ一日の嘆きでしょその百倍も辛い私よ


2020年7月24日金曜日

映画感想文 「MOTHER」大森立嗣


 まず印象をまずひと言で表すならば、手でつかめるほどのリアリティである。すみずみまで嘘がない。なぜなら、私はこういう親子を知っているし、この事件もリアルタイムで知ってひどく心を痛めていたからだ。ここに描かれていることは全部、社会の、親子の、男女の、貧困の現実でしかない。
 そのテーマとストーリーのリアリティを増強させているのが場面設定と俳優陣だ。長澤まさみはとにかく適役だった。彼女をこれまでいいと思って意識したことは一度もなかったが、今回の演技をみて私は脱帽した。ほかの誰でもこのリアリティは出ないと思った。利害や相手によって般若にも天使にもみえる凄みのある美貌、男にワンチャンを期待させる締まりすぎていない女らしいスタイル、媚びて甘えた猫のような鼻音と罵声を飛ばす時の虎のような低音、息子に対する時以外笑っていない目元。とにかく不満がなかった。息子役の美少年二人もほんとにうまい。5年の歳月がちゃんと繋がるくらい似ている雰囲気を保っていて、その時々の心の揺れも表現できていた。ふつうは子役はうまいとあざとくなりすぎたり必要以上の存在感がどの場面でも強すぎたりするものだが、今回はそれもない。妹役のかわいいが目立ちすぎない存在感もパーフェクトだった。阿部サダヲは普段アクが強すぎるし顔も好みではないのだが、今回はそれをちょうどよく生かして、男と女の結びつきの儚さと深さを見せつけてくれたし、数年経って変化した顔にちゃんと苦労の跡が出ていて、さすがだと思った。夏帆もよかった。「砂の女」の時の岸田今日子にそっくりで、過去に闇を抱えていたという役どころがこれまたリアルに出ていた。木野花も飛躍を遂げていた。ホームドラマにしか向かないのだろうと思っていたが、実年齢よりもはるかに高齢の、そういう家に住んでいそうなそういうタイプの母親のリアルを描き出していた。その他の役も含めてキャストに不満がない。これはなかなかできそうでできない奇跡だろう。
 と、あまりにも気に入ったのでキャストとリアリティの話ばかりしてしまったが、そこに不自然が入り込まないということは邦画(シネマ)にとって本当に大事なことだ。洋画ことにムービーにおいては「ありえないこと」「信じられないこと」「見たこともないこと」というのがエンターテイメント性を守る最大の魅力だと思うが、邦画にそんなものを求めて観ることは(少なくとも私には)ない。部屋の散らかり方ひとつ、服装髪型ひとつ、食べ物ひとつ、町の佇まいひとつ…そういうどれをとっても、日本の現代の話である限り違和感が入り込んだ時点で感情移入ができなくなってしまうのだ。もちろん登場人物たちは自分とは、育ちが違う。生き様が違う。けれど、こういう人たちが確実にいる。こういう心理が確実にある。そのことを映画を通してもう一度納得したいのだ。このように生きてしまった人たちに、この最悪の結果のほかになぜ最後の選択肢がなかったのか、それは悔やまれるが、それ以外のことは私だっていつ同じになるかわからない。人の境遇は個人の心がけだけで保証されるものではないからだ。また、過去のある地点でどこかひとつだけ歯車が違っていたら誰もがこうなりうるからだ。人の危うさは、途中からの教育や援助でたやすく克服できるものではない。この映画の現実味がそういうことを語ってくれる。
 「共依存」は身近なところにある。親子関係とも限らない。そもそも人は何かに「依存」することでようやく立っている弱い生き物なのだから。でも、人はやがて一人で立たねばなるまい。たとえば貧困などの格差による不遇を作っているのは社会であるが、その不遇の海に浮き輪を投げている運動も必ずある。亜矢さんたちのような手はいくつも差し伸べられている。しかし、その浮き輪が見えない、信じられない、掴めない、というのが真の弱者の現実なのだろう。この映画は、そんな弱者の根本的な問題をも照らし出している。
 後半にいくにつれて、私は胸ぐらを掴まれたような気持ちのまま座っていた。事件を起こさないにしてもこんな気持ちの子どもたちはきっと山ほどいる。こんな愛に渇いたシングルマザーは山ほどいる。エンドロールの頃には幾千の母子の叫びが重なるようで、私は切なさでいっぱいだった。この切なさが心地よくもあり、いい映画だと思った。
 劇場が明るくなると、前の席から「なんかつまんなかった。だるくていつ終わるんだって思ってた。」という若い女性の声がした。「ああ、なんか単調だったね。長澤まさみもね、あんまかわいくなかった。」と、もう一人が返した。映画や演劇のようなこんなわかりやすいかたちでさえ、世の中の現実を発信してその意味を考えさせることは困難なのだと知ったことはショックだった。



2020年7月18日土曜日

劇評「スーパープレミアムソフトWバニラリッチ」チェルフィッチュ


 コンビニを相対化するという目的を孕むという芝居。100分を超える長さ、それもコンビニ店内の一場仕立て。息を飲むというほどの事件もなく、ストーリーの山場というほどの大きな起伏もなく、セット転換も衣装替えもない。これでどうなることか、という心配をよそに、一瞬も目を離せない緊張感と面白さがひたすら続くのだから、チェルフィッチュは魔法だ。それでは何が魔法的なのか。
 まず第一は肉体のムーブメントだ。カッコいいダンスでもキレのある殺陣でもない。どちらかというと暗黒舞踏に近い不可解な(ストーリー上にその場面には普通ありえない)ナンセンスな動き。しかし、この動きこそが呪詛の魔法であり、その動き以外に不条理のココロを表現しようがないくらいの完璧なムーブなのだ。
 第二にはセリフ回しの独自性だ。滑舌なんかクソくらえ!と言ったかどうかは知らないが、次々と繰り出される聞き取りにくい(たいして聴き手を顧みない)身勝手なセリフに、驚くべきリアリティがある。だって、すべての市民たちは勝手にぼそぼそ喋るのだから。そして、このぼそぼそこそがまたもや呪詛めいている。
 第三には立ち方としぐさだ。キレイでもなく洗練されてもいない一挙手一投足。コンビニ店員や客が誰にも見られていない前提でいるときの、素のままの無防備な佇まいが、これ以上ないというくらいタイミングの計算のもとに表現されている。一周回ってここまで力を抜けるのは合気道をきわめたマスター道士レベルの魔術だ。
 第四には、演出(おもに出ハケ)だ。全編を通してバッハが流れているが、曲ごとに1つのエピソードが完結するようにしくまれている。一曲ごとの合間は言うまでもなく、曲の中の緩急や構成までもが細かくシンクロしている。人間技を上回る魔術的タイミングだ。これに関してはこれまで観たどこの劇団よりも緻密なプロっぽさを感じた。
 こういった魔法的なテクニックのほかにもこの演劇には魅力が尽きない。紗幕に描かれた書割はコンビニ奥の愛すべきジュースとデザートの棚であり、役者一人分くらいのキャラ性を保有している。床面はただ色で仕切られているだけなのに、レジも陳列棚も浮かび上がってくるから不思議だ。そのために照明もビミョーに工夫した変化がつけられている。また当てられている役者がいい。店員たちはこれ以上のハマリ役があるものかというくらいで(東京03のコンビニを思い出すが)、客のへんな人たちも日常から変な人たちに違いないと思わせるくらいのナチュラルな感じだ。SVのいじわる度合いも店長の中くらい小さい器も、完璧だ。
 テーマはおそらく深い。資本主義批判、グローバリズム批判、コレ性の喪失危惧。しかし、押し付けは皆無だ。ダイレクトに方向性を指図してくる気配もない。だから、誰が悪者だとか誰がかわいくないとか決めつけることなしに、人間ひとりひとりの切なさが俯瞰できる。「人生はワンオペ、みんなしんどいよ」と山本正典の台詞がかぶさる。

感想文「短歌は最強アイテム」=千葉聡への(読まれたくない)手紙


  チバサトはこんなに素敵な人生を送っていたのか。衝撃と共に、あの生真面目そうな照れた笑顔を思い出す。この長い間、私ときたら一体何をやってきたんだろう。自嘲と惨めさがないまぜになって私を襲う。
チバサトと私は極めて似た地点にいたはずだった。同じ頃短歌をはじめて、同じくらい評価を受けたりした。同じ国語の教師で、同じような経験を積み、同じ時代を生きたつもりだった。それなのに何ということか、この本を読むと、私の空費された過去が浮き彫りになる。
  初めから才能に大差があったと考えれば簡単なことだ。しかし、これは歌に限らず、教師としての生き方や生徒との関わり方や母親とのつながり方にまで話が及ぶから、読み進めていくほどに真綿で首を絞められるようだ。大松達知先生もまぁまぁ羨ましいけど、なんかチバサトのキラキラはもっと妬むに値する。
私だって生徒と一緒に短歌を“する”。歓びの声もたくさん聞いたし、コンクールでたくさん入賞もさせた。でも、何かが違うのだ。たぶん生徒たちの信頼の目線が、実績の見えない優子せんせいとチバサトでは天地の差なのだ。
私だって進学○○校の選考を通り、全力をあげて親身な進路指導をしてきた。夏休みもぜんぶ出勤して許される限りの時間とエネルギーを費やした小論文だって、たぶん校内では一番定評がある。でも、なんかチバサトのほうが愛されているような気がする。
 私だって文化祭のバンドで歌った。AKBもモモクロも踊った。でもチバサトみたいに喜ばれない。私だってクラスで花束をもらった。彼らのこともとても大切に思っていて毎日コミュニケーションをとった。できる限りの力は注いだ。私だって、自分が高校時代著しい成績を残した部活動とはちがう部活動の顧問をまかされ、それでも最大限の努力をして結果を出してきた。
 じゃあ、何がチバサトにはあって私には欠けていたのだろうか。それこそが短歌の力だ。短歌黒板の力だ。こんなにも無神経で一方的でおしつけがましいいこと、私にはできない! こんなにも粋でおしゃれでかわいく人たらしなこと、私にはできない! そう、それがチバサトの魅力。私に欠けているかわいらしさ。わかってた、そんなこと。この本を読む前からわかってた。だって、私は辛くなるたび短歌を休んでしまった。こんなに大変なのに歌なんか詠めないと思ってしまった。受験指導が忙しいから短歌なんかできないと思ってしまった。私生活が大変だから短歌なんかできないと思ってしまった。 ちがう。短歌は、忙しければ忙しいほど、辛ければ辛いほど、苦しければ苦しいほど、できる筈だったんだ。文明先生の言葉に「歌は不幸を餌食にする」というのがある。そうなのだ。表面的にこの言葉を語りながら、私は歌に餌をやらずに枯らしてしまった。
 これは、感想文の名を借りた辛い告白なのだ。李徴のような惨めな告白なのだ。でも、私には希望がある。こうしていた間に育んでいたものがある。その花を、もう少ししたらみんなの前に飾りたいと思う。その時にはまた、一緒に歌と教育を語ってくださいね。親愛なるチバサト。


2020年7月1日水曜日

観劇記録 『ナイゲン』(全国版)アガリスクエンターテイメント


 Twitterでチラッと噂を耳にしていた『ナイゲン』、無料配信ときいて観ないという選択肢はない。コロナのせいで舞台から遠のいて半年、「観劇三昧」のお世話になりながら細々とした演劇ライフを過ごしてきたが、今回は大物の匂いがする。
 作者の出身校である千葉県立国府台高校を舞台と公言し、そこで起こるドタバタ喜劇を描くという前評判なのだから、リアリティ抜群の面白さが期待できるはずだ。確か国府台高校は、(知り合いのお子さんが受験したとかいう)なかなかの進学校で、自主自律を体現する伝統校らしい。私はそもそもリアリティのない演劇は嫌いなので(それはフィクションが嫌いという意味ではない)、実感に基づく叫びがベースになっていそうなこの作品は好みに違いないのだ。果たしてこの期待は裏切られることはなかった。
 二時間の大作だが、シリアス(っぽいところ)とギャグ(になってしまっているところ)と真面目に笑い泣きしてしまうところ(当事者には地獄)が、バランス良くちりばめられているため飽きることはない。舞台はクローズドでありメンバーも固定の会話劇でありながら、それぞれの心理が手に取るようにこまかく書かれていることと、ストーリー自体が時間軸に沿ってうまく展開することで相当のエンターテイメントになっている。さらに細かく言えば、ナイゲンという名の会議の開始時間と観客の集合、下校時間と終演時間が一致したり、会議のレジュメが配布されたりするので、観客は生徒代表の一人にならずにはいられない。もちろん細かいことを言えばまだまだ仕掛けはある。
 物語は、やたら長い文化祭の代表委員会議の数時間を描く。それは誰もが望まない時間でありながら、「自治」の名のもとに厳格に進められてゆく。「どうでもいいんだけど早く終わって。」という全員の思いをブチ破る事件が、終了間際に飛び込んだ「今年は、1クラスだけ、文化祭での発表が出来なくなります」という魔の知らせだった。こういういかにもありそうなのにさりげない事件というモチーフこそが、大いなるドラマ性を生むことを私たちは知っているけれどなかなか書けない。ここから舞台は急激に緊張を増し、会議は性格を変え始める。「ひとクラスだけ犠牲を出す」この問題ほど人の本性をむき出しにするものはない。サバイバル系の物語はみんなその部分で成功しているわけだが、私はこの構造は「トロッコ問題」に似ていると思ったので、マイケルサンデルを思い描いた。「白熱教室」も十分におもしろいというのに、こちらはリアルガチ白熱教室なのだから。そういう意味では私は『12人の優しい日本人』や『十二人の怒れる男』のオマージュだなぁという意識は持たなかった。むしろ学年の微妙な上下関係や男女関係が絡むいかにも青春ど真ん中の高校生らしさが、余すところなく表現されていて、(いい意味で)高校演劇そっくりだなと思ったのだ。(大きな声では言わないが三谷幸喜より好きだ)
 テンポのよい泥仕合的応酬、めまぐるしく入れ変わる立場と状況。ピッタリあつらえたようなキャストのらしさ満点の演技。細かいことはもうここには書かない(誰かに聞かれたらまだまだ語れる)けれど、文句なくおもしろかったことは間違いない。ほかのも観てみたいと思った。


2020年6月19日金曜日

映画『死なない子供、荒川修作』

現代美術家であり建築家である荒川修作というバケモノを知ったのはふとしたきっかけからだった。1/fゆらぎ扇風機の開発で有名な理学博士の佐治晴夫氏の文章を読んでいて、いつの間にか辿り着いたのである。そもそも理学博士などに興味を持ちそうな私ではないのだが、佐治氏はパイプオルガンの奏者でもあり、バッハ好きな私がひっかかかったというわけであるから、縁の連鎖とは不思議だ。
それでこの偶然出会った映画、『死なない子供』ってタイトルからして怪しい。不死身の生物「プラナリア」の子どもの話??と混乱しつつ、ちょっとだけ観てみようかな、と再生ボタンを押した。まず、わかったことは、これは人間の話であり、“死なないための住宅”に住んだ人のドキュメンタリー映画であるということだ。ストーリーがあるわけでもない。しかし、そこからの90分はあっという間で、私は動脈の血の流れが激しくなるのを感じていた。
「三鷹天命反転住宅」そこは、荒川修作と、妻で詩人のマドリン・ギンズによる実験的な集合住宅である。荒川はこの住宅を「人間本来の身体の潜在能力が引き出され、死ななくなる家」だと語っているが、この映画はそこに実際に住むことにより変化がもたらされた人々を追っているのだ。ほかならぬ監督本人もその居住者であり、驚くべきことにその子どもは生まれたときからこの家で育っている。そして彼らをはじめとする皆に次々と不思議なことが起こるのだ。
傾斜した床や鮮やかな色を持つ球体の空間には、なぜか懐かしい思いが湧く。派手な筈なのに落ち着いているし、超現代的な筈なのに太古のジャングルのようでもある。あるいは、ゴーギャンの描くタヒチに感じる回帰のイメージかもしれない。心が惹かれた。羨ましいのか、知りたいのか、いや、そんな単純な感じではない「自然回帰への強い渇望」のようなものがせりあがってくる。
 この映画に解説は要らない。なぜならこの映画は答えをくれるからだ。現代人が忘れているものは何なのか、肉体を持つ意味とは何なのか、私たちはどこへゆくのか。そういった問いの答えがおのずとわかってくるのだ。

つかこうへい「熱海殺人事件~売春捜査官」 9PROJECT

  この作品を実は二十数年ぶりに観た。以前観たときは、まだ演劇を観なれていなかったせいもあり、「なんじゃこりゃ!」という感想だけをもった。観たのは北区だったが、どこの劇団だったかも記憶にない。スピード感には感心した覚えがあるのだが、わけがわからないまま2時間が過ぎ、それが肉にも血...