2020年12月12日土曜日

雑感

 文章が書けなくなった。ツイッターをはじめてからどんどん書けなくなったのだ。

140字に慣れてしまったのだろうか。いや、それだけではない。細かく複雑な事情が重なり合って書けなくなったことを私は知っている。

昔から読むより書く方が好きだった。書くことで金銭を得ていたこともある。書けば書くほど、文章の中に投影された自分が実体以上に満足のゆく存在になっていた。

最近は、ちがう。読むことで世界が広がる楽しみを知った。文章に投影せずとも身の回りのモノの写真や自分の写真にイイネがたやすくもらえる。書く必要なんかない時代なのかもしれない。

幼いころからクラスで一番文章がうまかった。でもツイッターに書いている人は全員そう。世界中のクラスで一番がわんさか集まっている。自分の小ささを痛いほど知る。

カラオケだってそうだ。町内カラオケ大会では大絶賛される子どもだったし、職場でも常に宴会クイーンだった。でも、精密採点で全国のコンペに挑めばひとたまりもない。93点やそこらではテレビの予選すら通らない。別にそうしたいと言っているのではない。ただ、私の自尊心や自信は、この時代になって大海の広さを知ったことによって、すべてのジャンルでずたずたになってきたことを言いたいのだ。

村一番の美少女が後宮に入って、全く天子の目に留まることもないことを気に病んで自殺してしまった話を読んだことがあるが、気持ちがわかる。

グローバル化の弊害だな、とまとめてみる。

2020年7月30日木曜日

翻訳『和泉式部日記』 ~夢よりもはかなき~ ラノベ風現代短歌訳

 恋なんて夢よりも儚いってわかってはいたけれど、私を置いて逝ってしまったTAKAのことばっかり思って悩みながら夜を明かし暮らして十カ月。気づいたら四月も中旬にさしかかってて、庭の葉がわさわさ茂って木の下のあたりが暗くなっている。フェンスにからむ草も青々としてきてきれいだけど、誰の目にも入らないんだなぁなんて、しみじみ見てたら人の気配がした。誰だろう  と思ってみると、TAKAの使いをしてたボーイだった。  

 ほんとに毎日ぼーっと悲しんで暮らしてた私は、懐かしくなって、「どうして長い間来なかったのよ。TAKAの思い出と一緒にボーイ君のことも思ってたのに。」と言うと、ボーイは「用もないのにいづみさんのとこに来るなんて馴れ馴れしくて悪いかなって遠慮してました。ちょっと前は合宿いったりもしてましたし。TAKAさんがお亡くなりになってからは仕事もないし一人ぼっちだったんで、最近はTAKAさんの身代わりに弟君のアツミチさんにお仕えしています。」と答えた。「それはよかったわね。でも、そのアツミチさんってやたら上品で気取ってるんでしょ。TAKAみたいに気さくじゃないってきいてるよ。」  

 私がそう言うとボーイは、「上品な方なのはほんとですが、僕にはフレンドリーですよ。今日も、『今でもいづみさんの家に行ったりしてるのか』と訊かれたので、勢いで『はい』とお答えしたところ、『じゃあ、これを持って行ってプレゼントして、コメントをもらってこい』とおっしゃいました。」と言いいながら、橘の花を取り出した。

「あっ…」と私は思わず昔の歌が口をついで出た。

あのひとのシャツの袖から香ってたコロンだポーチュガル4711

「では僕は帰りますが、アツミチさんになんてお返事しましょうか。」とボーイは言うが、初めてのアツミチさんに伝言で返事するのも失礼な感じはする。手紙を渡してちょっと誤解されるのも心配だけど、〈まあ、いいわ。アツミチさんてすごく生真面目だっていう噂だから、歌くらいさしあげたってチャラいって思われないわよね〉と思って、

シトラスの残り香よりも似てるかもしれない声の君が気になる

と書いて渡した。

そのころ、アツミチのほうは、テラスで待っていたみたいで、ボーイがこっそり物陰から合図したのを見つけて、「どうだった」と聞いてきた。ボーイがいづみのお返事をさし出すと、アツミチはすぐに読んですぐに返事を書いた。

同じ木のホトトギスだよ兄さんの代わりにきっとなれる僕だよ

そう書いて、ボーイに渡す時にアツミチは「誰にも言うなよ。遊び人みたいに思われるからな。」と念を押して、部屋に戻っていった。  

一方、いづみのほうは、ボーイが持ってきたこの手紙を見て〈キャー、ステキ!〉とときめいたものの、〈手紙がくるたびに返事を出すのも待ってたみたいでカッコ悪いかしら〉と思って、返事は出さなかった。

アツミチの方は、まだワンチャンあるか確かめようと思ってまた手紙を書いた。

告らなきゃよかったバカだ自分から首を絞めてる恋が苦しい

いづみは、もともとちょっと軽い女だった上に、寂しくてどうしようもない毎日を送っていたので、アツミチのこの歌に心が動いた。だからちょっと彼を試すような歌を返してみることにした。

まだまだねまだ一日の嘆きでしょその百倍も辛い私よ


2020年7月24日金曜日

映画感想文 「MOTHER」大森立嗣


 まず印象をまずひと言で表すならば、手でつかめるほどのリアリティである。すみずみまで嘘がない。なぜなら、私はこういう親子を知っているし、この事件もリアルタイムで知ってひどく心を痛めていたからだ。ここに描かれていることは全部、社会の、親子の、男女の、貧困の現実でしかない。
 そのテーマとストーリーのリアリティを増強させているのが場面設定と俳優陣だ。長澤まさみはとにかく適役だった。彼女をこれまでいいと思って意識したことは一度もなかったが、今回の演技をみて私は脱帽した。ほかの誰でもこのリアリティは出ないと思った。利害や相手によって般若にも天使にもみえる凄みのある美貌、男にワンチャンを期待させる締まりすぎていない女らしいスタイル、媚びて甘えた猫のような鼻音と罵声を飛ばす時の虎のような低音、息子に対する時以外笑っていない目元。とにかく不満がなかった。息子役の美少年二人もほんとにうまい。5年の歳月がちゃんと繋がるくらい似ている雰囲気を保っていて、その時々の心の揺れも表現できていた。ふつうは子役はうまいとあざとくなりすぎたり必要以上の存在感がどの場面でも強すぎたりするものだが、今回はそれもない。妹役のかわいいが目立ちすぎない存在感もパーフェクトだった。阿部サダヲは普段アクが強すぎるし顔も好みではないのだが、今回はそれをちょうどよく生かして、男と女の結びつきの儚さと深さを見せつけてくれたし、数年経って変化した顔にちゃんと苦労の跡が出ていて、さすがだと思った。夏帆もよかった。「砂の女」の時の岸田今日子にそっくりで、過去に闇を抱えていたという役どころがこれまたリアルに出ていた。木野花も飛躍を遂げていた。ホームドラマにしか向かないのだろうと思っていたが、実年齢よりもはるかに高齢の、そういう家に住んでいそうなそういうタイプの母親のリアルを描き出していた。その他の役も含めてキャストに不満がない。これはなかなかできそうでできない奇跡だろう。
 と、あまりにも気に入ったのでキャストとリアリティの話ばかりしてしまったが、そこに不自然が入り込まないということは邦画(シネマ)にとって本当に大事なことだ。洋画ことにムービーにおいては「ありえないこと」「信じられないこと」「見たこともないこと」というのがエンターテイメント性を守る最大の魅力だと思うが、邦画にそんなものを求めて観ることは(少なくとも私には)ない。部屋の散らかり方ひとつ、服装髪型ひとつ、食べ物ひとつ、町の佇まいひとつ…そういうどれをとっても、日本の現代の話である限り違和感が入り込んだ時点で感情移入ができなくなってしまうのだ。もちろん登場人物たちは自分とは、育ちが違う。生き様が違う。けれど、こういう人たちが確実にいる。こういう心理が確実にある。そのことを映画を通してもう一度納得したいのだ。このように生きてしまった人たちに、この最悪の結果のほかになぜ最後の選択肢がなかったのか、それは悔やまれるが、それ以外のことは私だっていつ同じになるかわからない。人の境遇は個人の心がけだけで保証されるものではないからだ。また、過去のある地点でどこかひとつだけ歯車が違っていたら誰もがこうなりうるからだ。人の危うさは、途中からの教育や援助でたやすく克服できるものではない。この映画の現実味がそういうことを語ってくれる。
 「共依存」は身近なところにある。親子関係とも限らない。そもそも人は何かに「依存」することでようやく立っている弱い生き物なのだから。でも、人はやがて一人で立たねばなるまい。たとえば貧困などの格差による不遇を作っているのは社会であるが、その不遇の海に浮き輪を投げている運動も必ずある。亜矢さんたちのような手はいくつも差し伸べられている。しかし、その浮き輪が見えない、信じられない、掴めない、というのが真の弱者の現実なのだろう。この映画は、そんな弱者の根本的な問題をも照らし出している。
 後半にいくにつれて、私は胸ぐらを掴まれたような気持ちのまま座っていた。事件を起こさないにしてもこんな気持ちの子どもたちはきっと山ほどいる。こんな愛に渇いたシングルマザーは山ほどいる。エンドロールの頃には幾千の母子の叫びが重なるようで、私は切なさでいっぱいだった。この切なさが心地よくもあり、いい映画だと思った。
 劇場が明るくなると、前の席から「なんかつまんなかった。だるくていつ終わるんだって思ってた。」という若い女性の声がした。「ああ、なんか単調だったね。長澤まさみもね、あんまかわいくなかった。」と、もう一人が返した。映画や演劇のようなこんなわかりやすいかたちでさえ、世の中の現実を発信してその意味を考えさせることは困難なのだと知ったことはショックだった。



2020年7月18日土曜日

劇評「スーパープレミアムソフトWバニラリッチ」チェルフィッチュ


 コンビニを相対化するという目的を孕むという芝居。100分を超える長さ、それもコンビニ店内の一場仕立て。息を飲むというほどの事件もなく、ストーリーの山場というほどの大きな起伏もなく、セット転換も衣装替えもない。これでどうなることか、という心配をよそに、一瞬も目を離せない緊張感と面白さがひたすら続くのだから、チェルフィッチュは魔法だ。それでは何が魔法的なのか。
 まず第一は肉体のムーブメントだ。カッコいいダンスでもキレのある殺陣でもない。どちらかというと暗黒舞踏に近い不可解な(ストーリー上にその場面には普通ありえない)ナンセンスな動き。しかし、この動きこそが呪詛の魔法であり、その動き以外に不条理のココロを表現しようがないくらいの完璧なムーブなのだ。
 第二にはセリフ回しの独自性だ。滑舌なんかクソくらえ!と言ったかどうかは知らないが、次々と繰り出される聞き取りにくい(たいして聴き手を顧みない)身勝手なセリフに、驚くべきリアリティがある。だって、すべての市民たちは勝手にぼそぼそ喋るのだから。そして、このぼそぼそこそがまたもや呪詛めいている。
 第三には立ち方としぐさだ。キレイでもなく洗練されてもいない一挙手一投足。コンビニ店員や客が誰にも見られていない前提でいるときの、素のままの無防備な佇まいが、これ以上ないというくらいタイミングの計算のもとに表現されている。一周回ってここまで力を抜けるのは合気道をきわめたマスター道士レベルの魔術だ。
 第四には、演出(おもに出ハケ)だ。全編を通してバッハが流れているが、曲ごとに1つのエピソードが完結するようにしくまれている。一曲ごとの合間は言うまでもなく、曲の中の緩急や構成までもが細かくシンクロしている。人間技を上回る魔術的タイミングだ。これに関してはこれまで観たどこの劇団よりも緻密なプロっぽさを感じた。
 こういった魔法的なテクニックのほかにもこの演劇には魅力が尽きない。紗幕に描かれた書割はコンビニ奥の愛すべきジュースとデザートの棚であり、役者一人分くらいのキャラ性を保有している。床面はただ色で仕切られているだけなのに、レジも陳列棚も浮かび上がってくるから不思議だ。そのために照明もビミョーに工夫した変化がつけられている。また当てられている役者がいい。店員たちはこれ以上のハマリ役があるものかというくらいで(東京03のコンビニを思い出すが)、客のへんな人たちも日常から変な人たちに違いないと思わせるくらいのナチュラルな感じだ。SVのいじわる度合いも店長の中くらい小さい器も、完璧だ。
 テーマはおそらく深い。資本主義批判、グローバリズム批判、コレ性の喪失危惧。しかし、押し付けは皆無だ。ダイレクトに方向性を指図してくる気配もない。だから、誰が悪者だとか誰がかわいくないとか決めつけることなしに、人間ひとりひとりの切なさが俯瞰できる。「人生はワンオペ、みんなしんどいよ」と山本正典の台詞がかぶさる。

感想文「短歌は最強アイテム」=千葉聡への(読まれたくない)手紙


  チバサトはこんなに素敵な人生を送っていたのか。衝撃と共に、あの生真面目そうな照れた笑顔を思い出す。この長い間、私ときたら一体何をやってきたんだろう。自嘲と惨めさがないまぜになって私を襲う。
チバサトと私は極めて似た地点にいたはずだった。同じ頃短歌をはじめて、同じくらい評価を受けたりした。同じ国語の教師で、同じような経験を積み、同じ時代を生きたつもりだった。それなのに何ということか、この本を読むと、私の空費された過去が浮き彫りになる。
  初めから才能に大差があったと考えれば簡単なことだ。しかし、これは歌に限らず、教師としての生き方や生徒との関わり方や母親とのつながり方にまで話が及ぶから、読み進めていくほどに真綿で首を絞められるようだ。大松達知先生もまぁまぁ羨ましいけど、なんかチバサトのキラキラはもっと妬むに値する。
私だって生徒と一緒に短歌を“する”。歓びの声もたくさん聞いたし、コンクールでたくさん入賞もさせた。でも、何かが違うのだ。たぶん生徒たちの信頼の目線が、実績の見えない優子せんせいとチバサトでは天地の差なのだ。
私だって進学○○校の選考を通り、全力をあげて親身な進路指導をしてきた。夏休みもぜんぶ出勤して許される限りの時間とエネルギーを費やした小論文だって、たぶん校内では一番定評がある。でも、なんかチバサトのほうが愛されているような気がする。
 私だって文化祭のバンドで歌った。AKBもモモクロも踊った。でもチバサトみたいに喜ばれない。私だってクラスで花束をもらった。彼らのこともとても大切に思っていて毎日コミュニケーションをとった。できる限りの力は注いだ。私だって、自分が高校時代著しい成績を残した部活動とはちがう部活動の顧問をまかされ、それでも最大限の努力をして結果を出してきた。
 じゃあ、何がチバサトにはあって私には欠けていたのだろうか。それこそが短歌の力だ。短歌黒板の力だ。こんなにも無神経で一方的でおしつけがましいいこと、私にはできない! こんなにも粋でおしゃれでかわいく人たらしなこと、私にはできない! そう、それがチバサトの魅力。私に欠けているかわいらしさ。わかってた、そんなこと。この本を読む前からわかってた。だって、私は辛くなるたび短歌を休んでしまった。こんなに大変なのに歌なんか詠めないと思ってしまった。受験指導が忙しいから短歌なんかできないと思ってしまった。私生活が大変だから短歌なんかできないと思ってしまった。 ちがう。短歌は、忙しければ忙しいほど、辛ければ辛いほど、苦しければ苦しいほど、できる筈だったんだ。文明先生の言葉に「歌は不幸を餌食にする」というのがある。そうなのだ。表面的にこの言葉を語りながら、私は歌に餌をやらずに枯らしてしまった。
 これは、感想文の名を借りた辛い告白なのだ。李徴のような惨めな告白なのだ。でも、私には希望がある。こうしていた間に育んでいたものがある。その花を、もう少ししたらみんなの前に飾りたいと思う。その時にはまた、一緒に歌と教育を語ってくださいね。親愛なるチバサト。


2020年7月1日水曜日

観劇記録 『ナイゲン』(全国版)アガリスクエンターテイメント


 Twitterでチラッと噂を耳にしていた『ナイゲン』、無料配信ときいて観ないという選択肢はない。コロナのせいで舞台から遠のいて半年、「観劇三昧」のお世話になりながら細々とした演劇ライフを過ごしてきたが、今回は大物の匂いがする。
 作者の出身校である千葉県立国府台高校を舞台と公言し、そこで起こるドタバタ喜劇を描くという前評判なのだから、リアリティ抜群の面白さが期待できるはずだ。確か国府台高校は、(知り合いのお子さんが受験したとかいう)なかなかの進学校で、自主自律を体現する伝統校らしい。私はそもそもリアリティのない演劇は嫌いなので(それはフィクションが嫌いという意味ではない)、実感に基づく叫びがベースになっていそうなこの作品は好みに違いないのだ。果たしてこの期待は裏切られることはなかった。
 二時間の大作だが、シリアス(っぽいところ)とギャグ(になってしまっているところ)と真面目に笑い泣きしてしまうところ(当事者には地獄)が、バランス良くちりばめられているため飽きることはない。舞台はクローズドでありメンバーも固定の会話劇でありながら、それぞれの心理が手に取るようにこまかく書かれていることと、ストーリー自体が時間軸に沿ってうまく展開することで相当のエンターテイメントになっている。さらに細かく言えば、ナイゲンという名の会議の開始時間と観客の集合、下校時間と終演時間が一致したり、会議のレジュメが配布されたりするので、観客は生徒代表の一人にならずにはいられない。もちろん細かいことを言えばまだまだ仕掛けはある。
 物語は、やたら長い文化祭の代表委員会議の数時間を描く。それは誰もが望まない時間でありながら、「自治」の名のもとに厳格に進められてゆく。「どうでもいいんだけど早く終わって。」という全員の思いをブチ破る事件が、終了間際に飛び込んだ「今年は、1クラスだけ、文化祭での発表が出来なくなります」という魔の知らせだった。こういういかにもありそうなのにさりげない事件というモチーフこそが、大いなるドラマ性を生むことを私たちは知っているけれどなかなか書けない。ここから舞台は急激に緊張を増し、会議は性格を変え始める。「ひとクラスだけ犠牲を出す」この問題ほど人の本性をむき出しにするものはない。サバイバル系の物語はみんなその部分で成功しているわけだが、私はこの構造は「トロッコ問題」に似ていると思ったので、マイケルサンデルを思い描いた。「白熱教室」も十分におもしろいというのに、こちらはリアルガチ白熱教室なのだから。そういう意味では私は『12人の優しい日本人』や『十二人の怒れる男』のオマージュだなぁという意識は持たなかった。むしろ学年の微妙な上下関係や男女関係が絡むいかにも青春ど真ん中の高校生らしさが、余すところなく表現されていて、(いい意味で)高校演劇そっくりだなと思ったのだ。(大きな声では言わないが三谷幸喜より好きだ)
 テンポのよい泥仕合的応酬、めまぐるしく入れ変わる立場と状況。ピッタリあつらえたようなキャストのらしさ満点の演技。細かいことはもうここには書かない(誰かに聞かれたらまだまだ語れる)けれど、文句なくおもしろかったことは間違いない。ほかのも観てみたいと思った。


2020年6月19日金曜日

映画『死なない子供、荒川修作』

現代美術家であり建築家である荒川修作というバケモノを知ったのはふとしたきっかけからだった。1/fゆらぎ扇風機の開発で有名な理学博士の佐治晴夫氏の文章を読んでいて、いつの間にか辿り着いたのである。そもそも理学博士などに興味を持ちそうな私ではないのだが、佐治氏はパイプオルガンの奏者でもあり、バッハ好きな私がひっかかかったというわけであるから、縁の連鎖とは不思議だ。
それでこの偶然出会った映画、『死なない子供』ってタイトルからして怪しい。不死身の生物「プラナリア」の子どもの話??と混乱しつつ、ちょっとだけ観てみようかな、と再生ボタンを押した。まず、わかったことは、これは人間の話であり、“死なないための住宅”に住んだ人のドキュメンタリー映画であるということだ。ストーリーがあるわけでもない。しかし、そこからの90分はあっという間で、私は動脈の血の流れが激しくなるのを感じていた。
「三鷹天命反転住宅」そこは、荒川修作と、妻で詩人のマドリン・ギンズによる実験的な集合住宅である。荒川はこの住宅を「人間本来の身体の潜在能力が引き出され、死ななくなる家」だと語っているが、この映画はそこに実際に住むことにより変化がもたらされた人々を追っているのだ。ほかならぬ監督本人もその居住者であり、驚くべきことにその子どもは生まれたときからこの家で育っている。そして彼らをはじめとする皆に次々と不思議なことが起こるのだ。
傾斜した床や鮮やかな色を持つ球体の空間には、なぜか懐かしい思いが湧く。派手な筈なのに落ち着いているし、超現代的な筈なのに太古のジャングルのようでもある。あるいは、ゴーギャンの描くタヒチに感じる回帰のイメージかもしれない。心が惹かれた。羨ましいのか、知りたいのか、いや、そんな単純な感じではない「自然回帰への強い渇望」のようなものがせりあがってくる。
 この映画に解説は要らない。なぜならこの映画は答えをくれるからだ。現代人が忘れているものは何なのか、肉体を持つ意味とは何なのか、私たちはどこへゆくのか。そういった問いの答えがおのずとわかってくるのだ。

2020年6月6日土曜日

エッセイ 名前のパワー

精神的に弱ってくると占いやら風水やら何か他力にパワーをもらいたい気分になる。極端にはまってしまうことはないが、姓名判断だけはかなりホンモノだと信じている。なぜなら私自身わけあって数回ほど姓が変わっているのだが、そのたびに運勢が予言どおりに運んできたからだ。

優子は才能に恵まれたとても良い名前だが、この『優』の十七画が曲者で、重たい苗字(画数が名前より多いもの)をかぶると次々と家庭内の波乱に見舞われるというのだ。ホントホント、重たーい苗字を持っていたころの私の人生、波乱続きにちがいなかった。「幸せになりたければとにかく画数の少ない姓にしなさい。」といわれても、姓は選べるわけじゃないじゃん!(幸い現在の姓はバッチリです)

まあこんなエピソードを信じるか笑うかはともかく、昔からある「名は体を表す」「神の名を濫りに唱ふることなかれ」などというフレーズからも「名」の大切さはわかる。たかが名前、ではないのだ。俳優だって商店だってその名前如何で発展の度合いがきまったりするではないか。単なる偶然以上の何かパワーがきっと秘められているにちがいないのだ。

ちょっとした工夫で人の心に強い印象を残す名称をつけられた商品や会社がある。一度きいたら忘れられないこれらの名称は、宣伝効果が高いことはもちろん、なんだか社長の心意気というかやる気というか、とにかくすごい勢いを感じてしまうのである。

たとえば、虫刺されの薬の「ムヒ」、ほかの薬とは比べようもない効き目をうたったというが、漢字で「無比」と書かなかったことで、かゆいところに手が届いているセンスである。それから糊の「フエキ」、流行に流されない「不易」は言葉どおりで信頼のブランドである。蛍光灯の「パルック」は韓国語で「光」の意味、パッと明るい感じをうまく音にあてはめた拍手喝采ものである。

社名では「ブリヂストン」、「石橋」ではさえない町の工場で終わりそうだが、英語を利用したことで一気に世界のブランドに飛躍した感じだ。カメラの「キャノン」(canon)も覚えやすい良い響きだが、「観音」の一眼レフと書いてしまったら誰も買わなかったかもしれない。

平成以後はキラキラネームというのが問題だ。生徒にも多くてだいぶ慣れてきたけど、本人はたいてい気に入っているようだ。なんて読めばいいのかな、なんて思わせるくらいでちょうどいいのかもしれない。その答えをきいたときには漢字表記とともにもう二度と忘れられなくなっているのだから。文人のペンネームにも、二葉亭四迷(くたばってしまえ)や江戸川乱歩(エドガーアランポー)なんていう忘れられないウィットに富んだものがけっこうある。

さて、古風な私もそろそろ時流に乗ってペンネームでも開発してみようかな、いやいや、やはり先ほど書いたとおりの姓名判断を信じて本名で続けますか、ねぇ。


エッセイ 死者とホタル

近頃、ホタルを見ない。と、言っても、以前だってそうたくさんお目にかかっていたわけでもないのだが。そうとはいえ、やはり、この減りかたは尋常ではない。そんな風に思っていたところ、田舎の知人からホタルの秘密をきいた。

「ホタルはもうそろそろ絶滅するのだよ。」

生物学者でもないその人は、まことしやかにそう言った。なんですって? 根拠があるの?

「ホタルは小さな人魂なんだ。戦争で亡くなった人の魂があの虫の中に宿って帰ってくる。お盆の頃なら注目度が高いから、地域のお盆に合わせてやってくる。親兄弟や妻や子に会いに来るんだね。だから、大戦の後しばらくはホタルがそこここにわんさか出てきた。でも、年々会うべき親兄弟も減ってゆく。」

なるほど、そして近年はこの世に戻ってきても会う妻子や親戚はいない。それだけ歳月が経ってしまったのね。戦争の犠牲者たちを直に知っている人は確かにもう残り少ないのかもしれない。そしてホタルは絶滅する。

母の長兄は特攻隊で十代の命を散らしたと聞いたことがある。ロシア人クウォーターだったその伯父はどんな気持ちで日の丸を背負っていたのだろうか。その気持ちを少なからず知っていたと思われる母も、もうこの世にはいない。

幼い日に私が家の前で見たホタルは、母に会いに来ていたその伯父だったのかもしれない。

ミシェルトゥルニエのいうフォースではないが、明らかにそこらじゅうに(死者の)魂は生きていて、必要に応じて対象の前に現れるのだろうなと思うのだ。 


エッセイ ディテール美人

残念なことに母は相当の美人だった。なぜ、残念なことにかというと、私は父似で、会う人はみな気の毒そうに「お母さんに似ればねぇ・・・。」といいながら、多くを語らずに私を見るのだった。いくら子供でもその・・・の部分に人が言いたかった言葉はわかっていた。父は五十四歳で(別宅に)私をもうけたのだが、その小渕恵三そっくりの風貌はお世辞にもハンサムとは言えなかったからだ。

私を不憫に思ったらしい父は、何とかコブスちゃんを愛される美人に育成する方法を考え続けたらしい。貧乏だったので当然お金は一銭もかけず、しかも確実に娘が幸せになる方法でなくてはならない。

「心を磨け」「教養を高めよ」なんていう基本の愛され術は腐るほど聞いた。しかしそんなことだけで私が納得しないのを彼は知っており、次の作戦に出た。

「お母さんのどこが一番美しいか知っているか。肘と踵だぞ。まだある。耳の後ろと足の爪の間。私はへぇえと思い、母の踵や肘を見た。ふうん、ふうん、確かに美しい。まあ、顔全体は見慣れているせいか、人様が言うほどたいしたものだとは思わないが、確かに母の微細部は驚くほど美しかった。

「これらの細かいところや見えないところが美しければ人は美人になるのだ。汚いと顔やスタイルも汚くなる。うそだと思ったら肘のうしろの汚い女を見てごらん。」

父の言葉どおり、私はそれからというもの女性たちの肘ばかり観察した。機会があれば耳の後ろや歯も覗き、背中のにきびもチェックした。なるほど父の言うとおりだった。細部の美しさは全体の美人度と比例する。すごい説得力だった。

「肘や踵を美しくするにはどうしたらいいの。パパ。」

「よくケアし、いつも意識しておくこと。むやみに肘をつかない。サンダルから踵をはみ出させたり上履きをつぶして履いたりしない。」

私は父の言いつけを厳格に守った。細かいところ、見えないところ。呪文のように唱えては自分に言い聞かせた。

 結局、そういう教え方で父が譬えていたことは、「人目につかない点で手を抜くことへの戒め」であったと思う。「誰も見ていなくても掃除は誠意をこめてしなさい。家の中ではトイレを一番丁寧にやりなさい。」とも言われたことを思い出す。『トイレの神様』なんて歌がヒットするずっとずっと昔の話である。

私は元来なまけものなので、『凡事入魂』というほどコンスタントな努力はできない。けれど時々、父が見ているような気がしてこっそり『些事入魂』することはある。

亡き母のあの頃の年齢を過ぎたいま、私は「美人」になってきたと思う。

エッセイ こういう人に私はなりたい

もし誰かと人生をとりかえるチャンスが与えられたとしたら、あなたは誰の人生を生きてみたいだろうか。私はいやなことがあったりして不幸な気分になったときには必ずこの質問を自分にしてみる。すると不思議なことに人生を取り換えたい人はまず居ないのである。大富豪のあの人も、美貌のあの人も、人気者のあの人も、なんだか大差なく思えてくる。ちょっとだけ松田聖子になりたいような気もするけれど、それはそれで不自由があり大変なんだろうな。そうかといってパンダやムササビの人生?だってラクではないだろうし・・・結局この不完全な人間である今の自分が一番なのだ。

悩んだらきりがないが、その悩める自分が愛しい。挫折すればこそ一歩成長できるのだし、普段叶わないことこそ達成したときには大きな感激がある。だから与えられすぎることの不幸を思う。ものだけではなく名誉も環境も機会も、である。遂げられないものごとへの渇望が歌を生む。

人生を取り換えたい人はいないけれど、誰かの行動を見て「これには負けた」と舌を巻く瞬間はある。たとえば、以前、あるベトナムの女性と地曳き網に行った。彼女はサテンの生地に刺繍がほどこされた素敵なファッションバッグを提げていた。砂で汚れないかなと心配する私を尻目に、彼女はなんとその中に次々と獲物を入れはじめたのだ。いま自分で曳いた網にかかってピチピチ跳ねている獲物を!だ。「キレイなバッグに入れれば電車で恥ずかしくないでしょ。」との弁。素手でひょいと掴まれた魚も蟹も魔法のように静かになった。やられた! こういう人にわたしはなりたい。


観劇記録 ミュージカル『青空の休暇』

 演劇というものに携わってきた者として、戦争というテーマの扱いには一方ならず注目する。「ガラスのうさぎ」や「ひめゆり」や「太鼓」のように直球で悲劇を訴えかけてくるものは無条件でグッとくるし、失くしてはいけない描き方だとは思う。しかし、それが好きかと言われるとNOで、観劇後の重たい気持ちは一度観たらもうたくさんという思いになるのだ。演劇として、二度と観たくないと思わせる作品はどうなのだろう。少なくとも商業演劇としてはそれは好ましくない。だから劇団四季が放つ「異国の丘」も、今井雅之の「winds of god」も、何度でも観たいエンターテイメント性を重視して作られている。しかし回を重ねるごとに、観客の心の中でテーマは熟成され、反戦への確かな思いとして固まってゆくのだ。この「青空の休暇」もそういう意味では成功している後者の部類に入るといえよう。

 最初のシーンはハワイ行きの旅客機の中というセミオープンな場で、3人のメインキャストと我々観客との距離感をほどよく繋いでくれる。3人の老紳士の事情に、同じキャビンにいるような気持ちで聞き耳を立ててしまうのだ。彼らが50年ぶりにハワイを訪れようとしている戦友であること以外の情報を、一時も早く知りたいという思いにさせられるからだ。そして、その期待通り、我々観客はハワイに降り立った彼らにどこまでも同行することを許される。JALのアナウンスも空港のざわめきも臨場感に満ちていて、そこに遅れてやってくるガイドのケイトの日系三世ぶりもリアルそのものだ。

 巨大な椰子の木のセットが左右に動き、目盛りを振りきらんばかりの全照が注ぐと、その熱量はまさに常夏の空気感を漂わせた。総勢で繰り広げられるハワイアンミュージックとフラの踊りがいやがうえにも盛り上がり、ここが劇場であることを忘れさせそうだ。ミュージカルという表現にしたことが素材とマッチしている証拠だろう。演奏は舞台上手での生演奏であり、それがまたリアリティを強めている。

 いかにも熱烈な歓迎を受けた主人公たちだが、長閑に休暇を過ごそうという様子ではない。彼らがどうしても見たかったものは、50年前に自分たち3人がチームとして戦闘機に乗り込み攻撃した真珠湾なのであった。真珠湾には戦争の記念館が建っており、彼らはそこで当時の攻撃の標的だった人物リチャードと出会う。そんな現実に行き当ったらとても平常心ではいられまいと思うが、彼らは戸惑いを乗り越えて心を通わせる。そこに至るまでの葛藤の描写はやや薄いかと感じたが、記念館のスクリーンに映し出される少年兵や空母の映像が、両国間に起こった悲劇の深さと人間の尊厳について考えさせ、重みを加えている。現代演劇でスクリーンに映像が映されることは珍しくもなくなった昨今だが、この記念館のホールで行われている講演に伴うスライドとしての表現は、実に効果的であった。舞台中央のスクリーンを指して解説するリチャードの巧みな英語を聞きながら、我々が記念館の見学者そのものになった錯覚が起ったのである。

 物語中盤では、「転」にあたる展開が起きる。日系の牧場主が3人にどうしても何かを見せたいというのだ。それが何かを言ってしまうといわゆるネタバレになってしまうので避けるが、その何かに向かうまでの流れがなかなか憎い。まず、牧場に続く夜の田舎道は、舞台中央に設置された車の座席とハンドルだけで表現されるのだが、乗り込むドアの音、エンジンをかける音、カーステレオの雑音、対向車のすれ違うヘッドライトの灯り、そういった細かいものを音響と照明の効果で補うことで見事な出来に仕上がっていた。牧場についてから彼らが歩く道のりも、木のセットを動かすことで十分な距離感を作り出し、いよいよ近づこうとしている物への期待を盛り上げてくれた。

 3人は離ればなれになってからの半世紀、それぞれ懸命に生きつつも、淋しさと悔いを心に抱えていたらしい。それぞれの半生のドラマと心の闇の深さを描けていたかといえば難しいが、その充分な時間がないという2時間舞台の欠点を補ったのが歌であった。「♪生れて来たのはなぜさ、教えて僕らは誰さ」(帰らざる日のために)といった歌詞を叫ぶように歌う3人の苦悩を湛えた表情は、描ききれない部分を支えていた。イッツフォーリーズは、作曲家いずみたくが設立した和製ミュージカル劇団であるから、歌の挿入のタイミングと選曲は抜群である。昭和歌謡特有の旋律と実直な歌詞は、台詞以上にドラマティカルで、過去を描くということに適している。つくづくこの作品は、ダンスと歌を魅せるためではなく、まさに演劇を更に饒舌にするためのミュージカルなのだなぁと感服した。

 この作品で描かれていたものは、「今を生きる」ということだ。過去の過ちも悔いも乗り越えて今に向き合うこと、それが青春だというのだろう。それが「青空」。彼らがラストシーンで飛び立つ先は、いま取り戻す青春の大空なのだ

ごあいさつ

いつもyoutubeの視聴およびtwitterでの応援ありがとうございます。
このたびライブラリーをオープンします。玉石混交(というほど玉もないかもしれませんが)のページで、まじめな文章からかなりどうでもいい雑文まで一緒に置いてしまいます。
どこの図書館にも学術書から児童書、雑誌やビデオまで置いてあるイメージです。
それでも「ウソ」は書きません。私は”リアリズム”を大切にしていますので。
というわけで、どうぞよろしくお願いいたします。

つかこうへい「熱海殺人事件~売春捜査官」 9PROJECT

  この作品を実は二十数年ぶりに観た。以前観たときは、まだ演劇を観なれていなかったせいもあり、「なんじゃこりゃ!」という感想だけをもった。観たのは北区だったが、どこの劇団だったかも記憶にない。スピード感には感心した覚えがあるのだが、わけがわからないまま2時間が過ぎ、それが肉にも血...