精神的に弱ってくると占いやら風水やら何か他力にパワーをもらいたい気分になる。極端にはまってしまうことはないが、姓名判断だけはかなりホンモノだと信じている。なぜなら私自身わけあって数回ほど姓が変わっているのだが、そのたびに運勢が予言どおりに運んできたからだ。
優子は才能に恵まれたとても良い名前だが、この『優』の十七画が曲者で、重たい苗字(画数が名前より多いもの)をかぶると次々と家庭内の波乱に見舞われるというのだ。ホントホント、重たーい苗字を持っていたころの私の人生、波乱続きにちがいなかった。「幸せになりたければとにかく画数の少ない姓にしなさい。」といわれても、姓は選べるわけじゃないじゃん!(幸い現在の姓はバッチリです)
まあこんなエピソードを信じるか笑うかはともかく、昔からある「名は体を表す」「神の名を濫りに唱ふることなかれ」などというフレーズからも「名」の大切さはわかる。たかが名前、ではないのだ。俳優だって商店だってその名前如何で発展の度合いがきまったりするではないか。単なる偶然以上の何かパワーがきっと秘められているにちがいないのだ。
ちょっとした工夫で人の心に強い印象を残す名称をつけられた商品や会社がある。一度きいたら忘れられないこれらの名称は、宣伝効果が高いことはもちろん、なんだか社長の心意気というかやる気というか、とにかくすごい勢いを感じてしまうのである。
たとえば、虫刺されの薬の「ムヒ」、ほかの薬とは比べようもない効き目をうたったというが、漢字で「無比」と書かなかったことで、かゆいところに手が届いているセンスである。それから糊の「フエキ」、流行に流されない「不易」は言葉どおりで信頼のブランドである。蛍光灯の「パルック」は韓国語で「光」の意味、パッと明るい感じをうまく音にあてはめた拍手喝采ものである。
社名では「ブリヂストン」、「石橋」ではさえない町の工場で終わりそうだが、英語を利用したことで一気に世界のブランドに飛躍した感じだ。カメラの「キャノン」(canon)も覚えやすい良い響きだが、「観音」の一眼レフと書いてしまったら誰も買わなかったかもしれない。
平成以後はキラキラネームというのが問題だ。生徒にも多くてだいぶ慣れてきたけど、本人はたいてい気に入っているようだ。なんて読めばいいのかな、なんて思わせるくらいでちょうどいいのかもしれない。その答えをきいたときには漢字表記とともにもう二度と忘れられなくなっているのだから。文人のペンネームにも、二葉亭四迷(くたばってしまえ)や江戸川乱歩(エドガーアランポー)なんていう忘れられないウィットに富んだものがけっこうある。
さて、古風な私もそろそろ時流に乗ってペンネームでも開発してみようかな、いやいや、やはり先ほど書いたとおりの姓名判断を信じて本名で続けますか、ねぇ。